Oct.24, 2023

11日水曜日元町に用事で出かけた帰り道、花やの花次郎でオンシジュームのランの花をお土産に買って帰った


アメリカヴァージニア州に住む甥の圭太君が自分の家の近くの秋の風景を送ってくれた。長閑な秋の風景だ。

           圭太君の歌謡教会
           圭太君の歌謡教会

ヴァージニアの紅葉は神戸の色づき具合よりずいぶん進んでいて早いようだ

1970年生まれの圭太君、小学校一年の時、安宅産業に勤める弟の正徳、和子夫婦の双子の長男(後列左から正徳、和子、それに3男で弟の桂一、中列左からジャネット・ウォードさん、母の逹子、圭太の双子の弟亮太、それに私の妻千恵子、前列左私でその右圭太君)多分小学校一年からアメリカに移ったのでその前の写真だ。

桂一は平成元年1989年43歳の若さ、正徳は令和3年2021年80歳でオレゴンに50年暮らしていたが亡くなった。

圭太君は今、10月21日土曜日、私の教会の礼拝説教YouTubeを送ったらオランダにいると返信があった。明日はアフリカのウガンダへ行くそうだ。忙しく働いているのだなあ、昔の写真と45年後とは、こう成長したね。


亡くなった弟の正徳、オレゴン州から日本に帰ってくるとき、いつも神戸に立ち寄ったがその時はジャパン・レールパスであちこち日本中を回って来神していた。その息子の圭太君も来日すると私たちの家を訪ねて来てくれるが何度もジャパン・レールパスを使って来てくれてるようだが今までより値上げされるとちょっと痛手だろう。日本中を自由に旅できる楽しみがちょっと悲しくなるだろう。お金持ちだから、ダイジョウブかな?

 

私の一生

 

 尊敬する作曲家中田喜直の一生の記録を上の随筆で読みながら私の一生、生涯の歩みをも考えた。

 私は昭和15年1940年8月22日神戸市で生まれた。翌年の昭和16年1941年のハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発、中田さんは1940年東京芸大ピアノ科に入学翌年1941年戦争が勃発して芸大から陸軍飛行学校へ、その後飛行将校から特攻隊へ、終戦を迎えて作曲家になられたそうだ。私は1945年終戦の年九州佐賀の父の故郷に疎開していた。翌年小学校に入学するために福岡に転宅、小学校から高校一年生まで福岡で育ち、高1から関西に移ったがそこで転校した兵庫県立伊丹高校でブラスバンドを知った。大学は京都の同志社へ進みそこでオーケストラの活動を通して音楽の楽しみに親しんだ。大学を卒業する時バンドやオーケストラの演奏家に成りたいと密かに思っていたが家庭の状況からそうした夢のようなことは実行できず、昭和38年1963年大学の専攻が文学部の美学芸術学専攻生だったので新聞記者を目指したがその新聞社の試験の時に開局5年めの関西テレビの受験を進められ新聞社をやめてテレビ局へ入社したが初めは音楽が分かるということで関西テレビの子会社の制作部門関西アートセンターに所属させられた。ここで音響効果の仕事につきドラマの効果などの仕事についた。その時期は昭和38年から48年で49年からはケーエーシーと名が変わり昭和55年1980年まで続いた。住まいは神戸から吹田に昭和42年に移り昭和47年千恵子と結婚、昭和53年1973年年大阪に移って定年まで住んだ。この入社以後の時期はテレビの音響効果の仕事で色々のジャンルの仕事をしたが中でもドラマでは根性ドラマというジャンルの3作品が記憶に残る。「土性骨どしょうぽね」平井昌一主演、「うどん」松山容子主演、「どてらい男やつ」西郷輝彦主演などの効果チーフをしたことは忘れられない思い出だ。昭和47年1972年に妻の千恵子と結婚したがドラマの仕事、どてらいやつのスタート間も無く結婚したので家や千恵子をほったらかして一途に関西テレビ開局15年記念ドラマとなったこの作品に打ち込んで家を顧みなかった。昭和56年からエイトプロダクションに移動してバラエテイやいろいろの中継もののディレクターやプロデューサーを務めたがその間で忘れられない作品がワイドショー内の企画、旅番組「近くへ行きたい」のディレクターで近畿のあらゆるところを紹介した番組、それから医学番組大阪府医師会提供の「がんばれ実年」、旅番組となるのか「ふるさとZIP探偵団」のシリーズのプロデューサー、それらが関西テレビで38 年働いた勲章、思い出となっている。2000年平成12年に60歳となって関西テレビで38年働いて退職し神戸に移り住んだがそれ以後パソコンを覚えた今ではこの 「MY BOOK」 を毎日更新する楽しみのうちに過ごしている。現在83歳、これからも残された日々、恥ずかしくない一生を過ごしたいものだ。

私の部屋の電話機の後ろにピカソの「ゲルニカ」の絵のコピーを飾っているが私はピカソのファンでこの部屋にはまだ2点の他の絵が飾ってある
私の部屋の電話機の後ろにピカソの「ゲルニカ」の絵のコピーを飾っているが私はピカソのファンでこの部屋にはまだ2点の他の絵が飾ってある